quinta-feira, 17 de maio de 2012

洗脳のすすめ

洗脳のすすめ(1)

教育、学習、勉強、記憶、訓練は自己的、社会的、洗脳である。おしっこの方法も洗脳である。犬や猫、馬や牛、は普通トイレを使わない。自然はそれでよい。人も文明社会でなければトイレは使わない。文明人、社会人は両親から生きる方法を学ぶ。それは自然のそれではない。同様に、スプーンの持ち方、食事の方法、服を着る方法等々…。そうでない事もある。お乳を飲む方法を教えられる事はない。暗闇や黒色に恐怖を感じるのも学習したわけではない。息をする為の肺の動かし方、心臓の動かし方も誰からも教えられない。これらはけして、洗脳とは言わない。人は自然行為習性(無思考)から社会生活思考に改心させられる。これを、教育、学習、勉強、訓練と言う。内容は洗脳である。目的は社会生活に役立ち、文明社会に適応および貢献する為。この目的をもつ一連の行為を広義の洗脳と呼んでよいだろう。狭義の洗脳は、条件反射を薬物等で定着させ、トリガーを催眠術、暗示法で無意識に植え付ける。狭義の洗脳を詳しくは知らない。知りたくもない。広義の洗脳とは世間では言わないようである。教育が普通である。しかし資本主義の宣伝、国家主義的ニュース(広報)はけして教育ではない。個人の為でもなく、公共的有用な為でもない。目的が企業の利潤、国家権力の為であるから洗脳と考えられる。人は毎日得る情報が洗脳的であるかどうかを直感でとらえる。しかし、その直感自体が洗脳されているかもしれない。普通の人に理解しずらい「無意識」がある。心理学ではこれを実験的な行為から得る方法に「条件反射」がある。これは、精神的行動の基本だろう。人は自分自身でもこれを使う。学習や勉強で記憶すべき事を「連呼」する。忘れたらまた「連呼」する。これは「条件反射」の一つである。つまり、洗脳を話すと、心理学や精神分析学を基礎とする事になる。「頭がよくなる方法」とか「記憶術」とかのたぐいは訓練の自己洗脳である。人は自分で決めた大きな方向性は忘れる。だから洗脳は少し強引であろうか?広義の自己洗脳に対して、広義の外部洗脳がある。それは日常の情報として存在する。広告、宣伝、ニュースの一部、選挙もある意味そうかもしれない。教育でも高等になると、洗脳的な傾向がある内容もあるだろう。「歴史解釈」とか「学説的偏見」がそうだろう。普通は国家権力的偏見が元になり、社会問題にもなる。何が悪くて、何が良いのか、微妙な場合が多い。宣伝や看板は誰にでも企業活動とわかる。社会的活動ですね。それを否定も肯定も自由にできるはずである。洗脳と言う意味では希薄な強さしかない。基礎教育、学校は誰でも受け、避ける事ができないから、もし、それで洗脳があれば、問題である。洗脳とは思考ベクトルをもつ。ある記憶を植え付ける。それだけなら教育と変わりない。ある第三者が人の意思決定を操作する為に使用した場合、目的が個人の為でもなく、文明社会に適応および貢献するものでもない場合洗脳と言って(定義して)もよいだろう。しかも、その操作自体が「洗脳」と知らさせる事はない。教育的とか、宣伝的とかの中に潜む「洗脳」はわかりずらい。まず、浅学ながら「『人の知恵』とは何ぞや?」を洗脳を前提として考えよう。

洗脳のすすめ(2)『人の知恵』とは何ぞや?


(1)生物の中で知能を適応の道具としたのはホモ・サピエンスだけである。
記憶、知能は人の脳に起因する。知能が使われ人類は繁栄している。
知る限り、人類だけだろう。他の生物は知能は選択しない。
つまり、無駄である。否定したのですね。
でも、みな生存、存続している。
知能は生物適応の非常にまれな進化手段と結果。
知恵は遺伝しない。脳細胞が多い、神経が人以外とくらべ特殊。
感覚器とその神経が異常であるほど複雑でもあり単純でもある。
難しい事は言わない。要するに人の脳はコンピュータ。
人以外はメカと固定機能のシステム。わかりますよね。
脳の中身は生まれてある部分を除いて空白。
ある部分とは意思では制御できない神経、あるいは本能。
だから、人は息をする、水や食べ物を取り込むと同じく、
脳の中身を外部から取り込む事ができるし、その必要がある。
他の生物もある程度は生まれてから学習したり記憶したりするのだが…
生存数によってその機能がDNAに書き込まれる。
逆に、人もその傾向がないとは言えないが(世襲的職業)、今は除く。


(2)知恵の書き込み
人は話したり、文字を覚える、文字を書くような事を
最初からできるような機能を持っている。
おおざっぱですけど、それらの機能を「知恵」と言う。
つまり、記憶をする、記憶される事を「学習」「教育」と言うが、
ある特殊な意図、つまり人社会への正しい適応でない意図がある時
それを「洗脳」と言う。つまり目的が違うだけでやる事は同じ。
だから「洗脳」「教育」も同じと考えて広義的にはよい。


(3)方法
「脳を使う事」は誰でもできるし、できなければならない。
そうでないと人は脳を持っている意味が生物的にない。
赤ん坊が母親から言葉を学ぶ。何も不思議はない。
コップの持ち方、スプーンの持ち方、スプーンで食事する方法、
排便、排尿の方法。「繰り返し」である。
その「結果」を「繰り返し」に加える。
情報ループバック制御かな?記憶とて同じである。
これが、学習、教育、洗脳であり、その全体を「知恵」と言う。


(4)5W1H
Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)
How(どのように)…これは言葉。人の知恵の基本要素。
教育の語学の指導であるが、十分に汎用性があり、拡張されるべきである。
人の行動や経験はこの要素で行われ、記憶される。
教育でさえこれを使っている。いいや全て!これが頭の世界。
つまり洗脳も同じである。


(5)条件反射と統合機能
詳細は心理学をお勉強あれ、簡単に。一般の小動物でも人でもよい。
青色となるボタンを押せば餌がでる。それ以外の色は何も起きない。
お腹が減って、青色を見たらボタンを押す。それが条件反射。
青色と言う条件を複雑にしたり、組み合わせたりしても、
結果から、餌を得る方法を学ぶ。それが統合機能。
これを使うのが、教育や学習。つまり洗脳。
何も、拷問とか薬物を使う必要は全く無い。
ある人が餌をくれる。餌をくれる人は正しい。その人の言う事は正しい。
これでも十分「洗脳」である。こんなにもお手軽、簡単。
母親のDNAと自分のDNAが半分同じだからなどと考える赤ん坊はいない。
「食糧をくれる」から正しい。それ以外何もない。


(6)能動と受動、時間と空間は有限
詳細は各自お考えあれ、簡単に。
能動的なものを与えれば能動的になる。
受動的なものを与えれば受動的になる。
馬鹿扱いすれば馬鹿な人になるし、自ら考えるような事を与えれば
「自分で考える」能動的になる。当然でしょう。
人の経験や行動は常に有限ですよね。時間も場所も限られる。
だから、人はそれに適応する。そうでなければならない。
だから、与えられるもので、対応する行動様式をある方向に固定化できる。
難しいようですけど、何も難しくない。
御飯(米)しか食べない人は海外にいっても米を探すだろう。
パンを主食とする人は何処に行ってもまず、パンを探すだろう。
これを「洗脳」と言うのはあまりに、変と思われるかもしれない。
基本は同じです。いつもの事をいつもする。それが知能の「適応」。
それを使い、「洗脳」できる。



こんなものであろうか?洗脳は…。
何も難しい事ではない。私達の日常である。生きる事である。
誰でもする事。しかし、おそらく、それらを「洗脳」と言う人はいない。
みなさん、日常で何が「洗脳」であり、何が「洗脳でない」かを考えます?
めんどくさいですよね。だからどうなんだ!どうでもいいよ、そんな事。
それが「洗脳」の「ねらい」です。
だから、自然とある方向に誘導される。本人は気付かない。
ただ、「当たり前だ、当然」とか言う理由しか思い付かない。
それこそ「洗脳された」です。
ならば、理由が言えればよいのか?
その理由も変であり、結果が決まっている。
その結果になるように理由を言う、選択する、導き出していまう。
もし、厳密に論理的ならば、そうはならない。
でもそうやって「考え」てしまう。「考え方」が偏る。
何度も言いますが、教育、学習も洗脳である。



どのみち「正しい」事自体、一体なんなんだかわからない。
最後は「自分が正しい」になる。それは論理的とは無関係ですよね。
でも論理的で、自分が死んでしまっては意味が無い。(ある場合もある)
「自分」は「自分」。「自分」は「他人」じゃない。生命の定義です。
だから「理論的」自体意味が無いのか?
でも人は「正しい」と言って「自分」の存在を主張する。
誰でも、そうである。それも生命の原則だろう。
「洗脳」はそれらを使う。ある意図する方向に「自分で考えさせる」。
それが「自分」では意識できない。
ある意味、非常に巧妙、単純、陰険、犯罪的でもある。



洗脳の手法を掲げる。名前は個人的であるので、あしからず。


●連呼洗脳方:何妙法蓮華経、…。選挙カーは 候補者の名前を、ただただ叫ぶ。
洗脳は記憶方法でもある。みなさん、勉強で何をしますかね?


●存在賛否洗脳方:自明の理を押しつけたい時、話さなければよい。
Aの存在を押しつけたい時に、Aの言う事を批判、否定、肯定すればよい。
話の内容はどうでもよいのである。Aの存在を記憶させる事が目的。


●焦点絞り洗脳方:魔法使いの「ほうき」の使い方
魔法使いは存在しない。
その前提を隠す為に、「正しい『(魔法使いの)ほうき』使い方の力説する」


●真偽多数決洗脳方:騙し(だまし)と洗脳で何が違う。
3つ事で2つ正しく、一つ正しいような嘘。それを数多く言う。
つまり、隠れた「だまし」を集めると洗脳になる。


●完全主義洗脳方:誰がどんな事を言っても、一つでも間違いがあれば
それを否定して、全部を否定する。これは論理的にまちがいではない。
論理的に正しい事が正しいとも限らない。
「文章は文章と文章からなる」の定義を理解できない人は多い。
人は完全ではなく、完全をめざす事を行うものである。
また、構造と内容は別問題とすべき場合もある。


●押し出し洗脳方:ニュースやインターネットの情報特性を利用。
常に、新しい情報が優先する。
だから、上書きしてしまえば都合の悪い情報を抹消できる。
都合の悪い情報やニュースは二度と出さない。普通は放置すればそうなる。
現在通常として行われている情報操作というより、自然の成り行き。


●上書き洗脳方:(連呼の逆)人の関心や記憶には一定量がある。
だから、ある情報の印象をなくし忘れさせるには、
関係のない情報を与えればいつの間にか人は忘れてしまう。


●情報情報洗脳:情報の真偽を議論対象にすれば、あやふやになる。
情報は自分で確かめられない事が多い。人は情報の裏をとる。
もし、1つの情報で、3つの情報がその否定ならば、否定となるだろう。


●再帰的「洗脳の手法」:
排除したい場合、誇張したい場合、洗脳手法の逆を使う。

マスコミが洗脳を報道するか?
自分の事で無ければ報道するだろう。しかし自分の事はけして言わない。
言わない事は誰も批判しないだろう。みな同じであるから。
逆に、それを言う事自体「何かあるな?」と思わせる。
論理的には、自分の非を言えば、言っている事自体が間違いになる。
「私は嘘を言っている」と言っている事は嘘だから真?
いいや、嘘の中の嘘は嘘である。嘘の全体の中に何があっても、
全体が嘘である事にはかわりない。それ自体が意味をなくす。
ある情報がある手段で公開された場合、
百万人が見たら百万人の判断があるべきである。
そうではない事もある。その情報が数人しかわからなければ
その数人が真偽をどうにでもできる。
内容が問題ではなく「判断の数」である。
例え、権力や権威がある組織が「正しい」と言っても、
万人が判断できる簡単な事の方が「正しい」。
「裸の王様」かもしれない。



以上の文章も各自、洗脳か否か判断すべきだろう。
洗脳が教育的ならこれも洗脳である。
しかし、中身がどうであれ、私が誰で何処であれ、
「構造モデル」を考えて「各自が判断すべきである」と言うのも洗脳だろうか?
と私も自分を考えてみるが、結局、自分は自分が正しいと思う。
(「やってられねえよ」などとブザマな結論は避けたいのだが…)
おわり。



【追記】もし、私の話が正しく伝われば、何もなくなる、内容がないはずである。
当然、洗脳の話も洗脳です。広義で洗脳でない事など、無いだろう。
思考構造とか概念とか言うものなのだろうか?
問題は洗脳で誰が得をするか?
これを読んだ人が洗脳を理解できても私には何一つ利益はない。


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